さよならを云えなくて善かった、
□さよならを云えなくて善かった、
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そうして周りの気持ちがおちついたってわたしは今まで歩いた嫌なことを無かったことになんてできないのに、ここにお兄ちゃんが居て、もしかしたら普通になれるかもしれないのが、すごくうれしいのだ。
「お兄ちゃん、ごめんけど、トマト、小さいから嫌でも一個は食べて」
「お前が食えよ」
顔をふいっとあっち側に向けて、明らかに嫌な顔をする。
お夕飯の付け合わせは仕方のないことに、胡瓜とキャベツとトマトしか無かったから、本当に本当に、悪気はなく平等にお兄ちゃんのお皿にも盛ってしまったのだ。
「あーんしてあげようか」
「あっち行け」
隣の椅子で、左に自分のハンバーグを取り右手の箸でプチトマトをつまむとそっと手を抑えられた。
「鬼道くん、お兄ちゃんがあーんしてほしいって」
斜め右の鬼道くんにとばっちりを吹っ掛けると面白そうな顔になって身を乗り出す。
「仕方ないな、ほら、明王の好きなプチトマトだぞ」
「はいお兄ちゃん、あーん」
二人初めての共同作業をして、お兄ちゃんが怒って立ち上ると秋ちゃんに怒られてお兄ちゃんは結局プチトマトを余分に3つも食べる羽目になっていた。
そうしてあしたはこの島を出ていくって云うのに、わたしはお兄ちゃんの所に居た。
あんなに長く嫌いだったのに、もう自然になりたいなんて不思議なことだ。
「お兄ちゃん、ここ、たのしかったね」
「ま、悪くないよな」
「うん、わたしは好きよ、こういう現実っぽくない所」
「ふうん」
手元のチョコクランチをひとつ掴んで、意を決して口をひらく。
「お兄ちゃん、あのね、」
「どうした」
「お母さんたちには、その、わたしのこと、連絡、」
「まだ」
「え、ちょっとはやくとってよ」
座布団を引きずり出してお兄ちゃんを打つ。
「どうせ仕事で来ねえよ」
「来るかもしれないじゃない」
「別に、普通に帰れば善いだろ」
溜息をつきながら、デパートから帰るみたいなノリで云うもんだからわたしはもやっとしてしまった。
「だって、なんにもなかった訳じゃないんだよ、何話して云いかわかんないよあっちも」
背筋を伸ばして向き直ると面倒くさそうに頭を掻いた。
「何を話すもさ、家族なんだから関係ないっての」
「だから、そういうことじゃないんだってば、あああもう、ばか」
「わかんねえよ」
時計の針の音って、もっと可愛らしかったような気がする。
こんな、モーターみたいな音はしなかった、とん、とんっ、とん、とん、きちっ、
10時を過ぎてしまった。
もうすぐたのしい夢の時間が終わるのだ。
そう思うと淋しいしせつなくなった。
ベッドに腰掛けたまま、ぱたんと転がって、手だけを広げた。
「お兄ちゃん、」
「今度はどうした」
「手を、繋いでも善い、」
お兄ちゃんは同じ高さに転がってわらって、眼を閉じた。
電気を消して、わたしの手を探す様にまどろっこしく指がのびてくる。
「色々ごめんな、」
「もうごめんはおしまいだよ、お兄ちゃん」
泣いたのか笑ったのか、ひとつかふたつ息が漏れて手がぎゅっと握られる。
「ありがとう、」
「ねえお兄ちゃん、」
眼を閉じたら涙がじわっとしたので、ようやくわたしの涙腺は空気が読めるようになったのだと思った。
「おやすみなさい」
よかった、こうしてもういっかいと云わず、あなたとこんな近くに居て、淋しくない夜に眠るなんて、
さよならを云えなくて善かった、
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