さよならを云えなくて善かった、

□拍車のかかった、
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わたしが、あの日を境に世界を不幸な場所だと感じ始めた理由は、きっとあのひとのせいでもある。

わたしはだめで、どうしてあのひとだけが。



事情をひとつもしらない訳じゃないだけに、こころは何年分かのかなしみをおしつぶして痛む。








「おかえりなさい、鬼道くん」


すこし日が暮れて、窓の外を視ると、赤いマントと、頭まで伸びる肌色が視えた。

ので、乱暴に部屋を出て玄関へ向かった。




玄関を出て数歩の辺りで二人に追いつくと、ふたりともそろってわたしを視た。



「ああ、林檎、」


「おつかれさまだね、」



タオルを渡すと、一瞬ためらって受け取った。


ちらりと隣に眼を配せると、向うもちらりとわたしを視遣って何も言わずに去って行った。

図らずも追いかける形になって宿舎へ向く。



「どう、完成しそう、」


「まだ、なんとも言えないが手ごたえはなくはない…だが何となく」


「?」


「何かが足りない、気はする」



タオルを持つ手を一瞬止めて宙を視た。




「そうなの…、あ、はい、ドリンク」


「ああ、ありがとう」



ドリンクを飲みほして、わたしを上目遣いに視る。




「……やはり、不動とはまだ、」



心臓がきんっと鳴る。



「…………………」



わたしが言葉を失っていると、鬼道くんはそれを察したようで



「…何でもない、今日の夕飯は何だろうな、」


関係ない話に跳んでくれた。






お夕飯の席は、意識してあのひとから一番遠い席にした。

今日は一番にお皿洗いを名乗り出た。


トマトの催促なんてもうできないから。





なぜか目前には豪炎寺くんが座っていて、ちらちらとわたしを視ている。

お隣の鬼道くんとなにか示しあわせでもしたのだろうか。



「なによ、豪炎寺くん、なにかわたしに言いたいこと、あるの、」


ピラフを何故かお箸で運びながら訊く。


「いや、……別に、」


いつもの、表情のない真っ黒な瞳でさらさらっと返されてしまった。




「…終わった、ごちそうさま!お皿行ってきます!」


「ああ、おつかれさま」










そういって今日の唯一のお手伝いの現場には、何故だか誰かがいたのだった。


冷蔵庫に凭れかかって腕を組むかれを、居心地の悪さと一緒に忘れながらわたしはお仕事に取り掛かる。





「それじゃあお皿洗いまーす、みんな早めに出してねー」


その辺に無造作に置かれたお鍋から手をつける。




じゃあじゃあ、と音がして、蛇口から出るお湯でわたしの手の油までもが流されていく。




その間、かれはわたしの背後1.3メートルでずっと黙ってわたしを視ていた。





「…その皿、どこ、俺、運ぶわ」


「……棚、視たらわかりますから、このふきんで拭いて、お願いします」


極力眼を合わせないで、極力、無感情に、無勘定に、





「みんな、もうお皿ないねー?」


30分くらいして終えた頃に、後ろのお手伝いさんが声を上げた。




「なあ、お前さ、」


「もう善いです、しらないです昨日のそんな人、わたし知りません、まったくの別人で」


「…ちが、おいってば!」


踵を返して、腕を掴まれる。

がた、たたたん、


案外に余裕が無くなってしまって、必死で振りほどこうとしてしまった。

わたしの振る腕とかれの腕力で、べちべちと当たる音が鳴る。




「ぃやっ、です、ちょっと、もう、何もしりませんから!」



「知りません訳ねえだろ、なんで昨日から逃げてんだよ、もう知ってるんだろ、」


「!!!!!」


やだ、やだやだ、もうはなしてよ、




「なあ、おまえ、ほんとうに兄貴の顔まで忘れたのかよ!」





(あああああ、云ってしまった、)
(だからもう幸せになんてなりたくなかったのに、)


立っていることが苦しくて、わたしは眼を閉じた。



拍車のかかった、

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