あなたとの距離
□初心者でもわかるあなたとの距離感
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「武士くん、」
そうやって近々しくかれの名前を呼ぶのはわたしじゃない女の子なのだ。
「、雪埜」
かれのながい睫毛が振り向いて応える名前も、わたしじゃないその女の子なのだ。
「……」
すこし遠くから視るだけで眼の眩むようないとしさと眩しさをはらんだままふたりも、こんなわたしと同じ空気を吸って、同じ時間を生きているのだ。
彼女が通り過ぎて行くとわたしが今度は彼を呼ぶ。
「河井くん、」
襟足のすくない、ながいしなやかな黒が揺れて流れる。
「ああ、林檎 どうしました」
しろい頬が此方を向いて、わたしは胸を鳴らす。
「河井くん、今日も素敵ね!そのシャツはどこのもの?とっても似合っているわ!」
何時も変わらず素敵なかれを讃えるとすこし困ってかれはわらう。
「ふふ、林檎はいつも褒めてくれますね」
「だって、河井くんが素敵で仕方ないんだもの!」
すこし頬をそめてわらう。
「他にも素敵な人は一杯いますけどねえ」
「ちがうのよ!河井くん、が素敵なの!」
河井くん、を少し強調してみた。
これはわたしの中での唯一の、かれを表す文字列。
「そうですか、林檎も、そのワンピースがよく似合っていますよ」
「ほんとうに!?」
「はい、」
営業的な笑顔をもらったって、わたしは嘆く訳にはいかないのだ。
ふわああっと花が咲く。
「雪埜のスタイルの善さには負けると思うなあ」
「そうですか、確かに素敵ですけど」
素敵!
ずん!と喉の奥に刺さって、瞼が切り傷で浸みる。
「うん、可愛いよね、ぜったいに人気があると思うの、河井君以外にも!」
「そうですか、ぼく以外にも」
「うん、たとえばわたしとか」
「ライバルが多いなあ」
「うふふ、」
はたから視たらただの会話なのか、遠くで視ている志那虎くんはいつもみたいに瞑想じみた姿勢でほほえましそうな顔をしている。
「林檎―!夕飯の準備手伝ってほしいっちゃー!」
ドア越しに遠くから菊ちゃんの声を聴いてわたしは踵を返す。
「じゃあね、」
「ああ、はい、楽しみにしています、がんばってきてくださいね」
「うん、」
「河井くん、」
またちょっと大事に呼んでみた。
背を向けてもう一度、今度は唇で云った。
「河井くん」
そう、わたしがかれをこれ以上近い名前で呼ぶことなんて一生ないのだ。
初心者でもわかるあなたとの距離感