あなたとの距離

□めをあけてもまぶしい
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わたしはこれまでに幾度となく、河井くんのピアノを聴いてきた。

河井くんのご実家で、新潟のホールで、東京の舞台で、剣崎のお家で、わたしのヘッドホンで、空の上で、
真昼間、起きたての早朝、夕暮れ、御飯どき、真夜中に。


何度も何度も、わたしはかれの指の音を聴いてきた。

それにあわせて踏み込んで跳び上がっていくさまも、射干玉のさらさら、音に震えるのも、わたしは視ていた。


今だってこうやって、眼を閉じてもかれはわたしを魅了してやまない。






「起きていますか、」


わたしの部屋の扉を開いて、ひっそりと、滑らかに呼び掛けるのが聴こえた。

足音も立てない様に、影はうごかない。



「ごめんなさい、起きている訳が、無いですよね、」




あああああ、放っておくと帰ってしまう。

20秒ほどのずんっとした沈黙の後、わたしはおもむろに起き上がった。



「起きているよ、どうしたの」



「いいえ、別にどうっていうことはないんです、けれど、」


堪えていた息を吐き出すように静かに、河井くんが話し出す。




「きみなら、起きているかと思って、会いに来ました」


部屋の電気をパチンと鳴らしながら、微笑んでわたしに歩み寄る。


お腹の下の方に、ぎゅうっと空白が押し寄せて、肺を押しのけてつらい。




「なにしにきたの、」


「何をしようとか、そんな、ただ会いに来ただけですよ、」



ベッドから立ち上がると河井くんはわたしにもう2歩歩み寄った。

重力のままに座り直す。



「ねえ林檎、」


河井くんのしろい硬い腕がわたしに伸びる。

髪をさらっと流して、指の重さが頭に来る。




「か、いく、」


声にも音にもならないで、わたしは竦んだ。



そうして嘘みたいにちいさな頭が、わたしのうえに近付いて、キスを、額に、






「林檎!」



瞬きをすると、わたしに伸びたのは雪埜の腕の方で、カーテンは開いて真っ白しか無かった。




「朝だから、ほら、起きないと、みんな待ってるよ!」


「…………………」


そうして開いたドアから、ついさっき見たばかりのあんまりにも端正な頭があった。



振り向いて、こっちを覗くと声を投げた。




「林檎、お寝坊さんですね、ふふふ」


今みたいに、微笑んでいる。




「今日の朝食は雪埜の手造りですよ、はやくしないと、」


よくみると、雪埜は薄いピンク色のエプロンをしていた。


ね、と河井くんは首を10°くらい傾げたら、もう今日の朝御飯なんてどうでもよくなった。


赤くなる雪埜に、眼を閉じてふふ、と声を漏らす。




朝日があんまりにも眩しかったので瞼が痛くてわたしはカーテンを閉めた。




(夢でもし、会えたら素敵なことね)
(どうせ、あなたはわたしに逢わないけれど)

めをあけてもまぶしい

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