カランカランとベルの軽い音を立てて開いた扉の向こうで、見慣れた顔が驚いたように目を丸めていた。
そういえば、バイトが始まる時間までまだ一時間以上ある。こんなに早く仕事場に来たのは初めてだった。
マスターは大きな目を丸めたあと、慌てて駆け寄ってくる。
グラスを拭くための真っ白な布巾を持って正面までやってきたマスターは、心配そうに下がった眉尻で覗きこんできた。
「憐二……なんで泣いてるんだ……?」
そう問う優しい低音に、一層胸が痛んだ。
ボロボロと止め処なく溢れ出した涙は頬を伝い、首筋を落ちて、着ていたパーカーの襟を濡らしていく。
いつから泣いていたのか、パーカーの襟はびちゃびちゃと水分を吸い、僅かに色が変わっていた。
布巾で優しく目元を拭うマスターの胸に、ふらふらと寄り掛かる。そうすれば、マスターはやんわりと抱きとめて、片手で頭を、もう片手で背中を撫でてくれた。
優しいその温かさに、痛みは増していく。
癒されたくて会いに来たというのに、マスターの優しさは、あまりに柔らかすぎた。憐二の痛みを包むには、儚いようだった。
「マスター……マスター……」
涙で掠れた声で呼べば、マスターは背を撫でていた手を止めて、一層強く抱き締めてくる。
「マスター……駄目でした……俺は、マスターみたいに割り切れなかった……」
ぎこちなく、マスターの体が強張る。
その真意が掴めずに、または、相手のことなど気に掛けている余裕も持ち合わせていなかった憐二は、ハッと息を吐き出した後、マスターの背中に手を回して、彼の胸にしがみつくように擦り寄った。
「好きなんです。あの人が、男でも。あの人が、俺のことなんか知らなくても……馬鹿みたいに好きなんです」
抱きついたマスターの腕の中で、箍が外れたように泣きじゃくった。
わんわんと泣き出した憐二を、マスターは黙って抱き締める。
何度も「大丈夫だよ」と励ます声が聞こえていた。優しいマスターの声に、堪えていたものがすべて流れ出してくる。
もう、止めることは出来なかった。
密かに絶大な信頼を寄せていた雇い主であるマスター・魚塚に、悩みを打ち明けたのは一週間前のことだった。
いつも見かける『男性』が好きだということを。
それから、この気持ちがおかしいのかどうか、諦めるべきなのかどうか、悩んでいることを。
そんな相談をされて、いくら憐二よりも幾分も年長の魚塚であっても戸惑うだろうと思っていたのに、魚塚はなんて事もないように返してきた。
魚塚自身も今の憐二と同じ様に、同性に恋をしたことがあったと聞いて、心底心強くて、そして秘密の共有者である魚塚を、一層信頼した。
魚塚は、『諦めた』。
恋心を伝えることを諦めた魚塚は、苦笑する。
「今の関係を壊すのが怖いからな」
魚塚が誰を好きになったのかは知らなかったが、相手は彼の友人らしい。
相手との信頼関係を優先した魚塚が選んだのは、自分の気持ちを押し殺して、消してしまうことだった。
ならば、自分は……と自問する。
好きになったのは、名前も知らない人。
ただ、何度も街で見かけるだけの人だ。そこに魚塚とその相手のような信頼関係はない。
失うものは何もないが、得るものも、きっと無い。
『彼』とは、話したことも無かった。どうしても自分は『彼』に声を掛けることは出来なかったし、かといって『彼』が話し掛けてくれることなんて無い。
少しだけ夢を見て、もしかしたら『彼』も、よく見かける自分を意識下に置いてくれてはいないだろうかと、そう思っていた。
現実は、そんなに優しくはない。そう気付いたからこそ、自分は今、泣いていたのだろう。
距離が縮まることなんて無いと解って、同時にこの想いが叶うことなど無いと改めて思い知らされたから、苦しかった。
◇
「ほら」
差し出されたおしぼりから、ふわふわと白い湯気が上がっている。のろのろと持ち上げた重い手で受け取ると、程よく温かい。
「それで目を温めろってさ」
言われて、おしぼりを目に押し付けた。じんわりと痛みをほどく様に広がる温かさに、酷くホッとする。
ふと、おしぼりの隙間から覗けば、正面で渋い顔をしている常連客が目に入った。
目が合うと、常連客は一層怪訝な顔をする。
「どうした?」
「・・・いつから居たんですか、神さん」
掠れた声で問えば、常連客―神は、はぁ?と首を傾けた。それから大きな溜め息を吐いて苦笑する。
「お前がわんわん泣きながら店に来る前から居たけど」
「……そうですか」
気恥ずかしさで素っ気無く返す。
いつの間に移動したのか、バーの奥にある休憩所の椅子に座っていた憐二は、それから暫しぼんやりと湯気を上げるおしぼりを見つめていた。
その温かさは、魚塚の優しさのように、じんわりと染み込む。そして、一層涙を促してしまうのだ。
「……聞かないんですか」
そう問えば、神は眉を寄せた。それから、質問の意味に気付いたようで、別に、と返してくる。
「魚塚にしか言いたくないんだろ? 俺が聞く話じゃないみたいだし」
返ってきた言葉にホッとした。
いきなり泣いて飛び込んできたのだから、その理由をあれこれ聞かれるかと思っていたのだが、マスターの親友でもある神は相手への気遣いがとても上手い。
また沈黙すれば、混乱していた頭が、冷静さを取り戻していった。
そして気付く。
神は、確かに理由は聞かないが、自分が店に飛び込んだときには既に居たと言う事は、魚塚に話した内容も全て聞いていたのではないかと。
となると、この沈黙は、こちらへの対応に困っているということなのだろうか。いきなり泣きながら「男が好きだ」とカミングアウトした知り合いに、戸惑っているだけなのだろうか。
そろそろと視線を上げてみれば、神と目が合った。思わず凝視してしまえば、彼は不思議そうに首を傾げる。
「もう落ち着いたのか? だったら魚塚に……」
「じ、神さん……」
座っていた椅子から腰を上げた神を引き止める。すると彼は目を丸め、それから椅子に座りなおした。
戸惑いながらも、憐二はそろそろと口を開く。
「き、聞きました?」
「あ?」
「俺が、その……その……」
聞いておきながら、言いよどんでしまう。暫し口をまごつかせていた憐二に、神はゆっくりと足を組んでから、こくりと頷いた。
「聞いた。すまん」
「あ、あ、神さんが、謝ることじゃ……」
思いがけず返って来る謝罪に慌てて顔を上げれば、神は酷く真剣そうな表情をしていた。それに、思わず涙腺が緩む。
「……魚塚さんに、相談してたんです」
「好きな男がいるって?」
「はい。俺、どうしていいか解んなくなって……堪え切れなくて、魚塚さんに言ってみたんですけど……」
「……そうか」
神は、いつもと変わらぬトーンで返してくる。軽蔑や嫌悪を感じないその声に、酷くホッとしてしまった。
「……でも、駄目でした。やっぱり、叶うわけなくて」
言葉にすれば、また涙が溢れそうになる。
手の上に置いたままだったおしぼりを、再度目に押し付けてみた。ぬるくなったおしぼりに、生暖かい涙が吸い込まれていく。
「俺も、魚塚さんみたいに、諦めるしかないみたいで」
折角魚塚が相談に乗ってくれたというのに、何も活かせなかった。傷つく前に、魚塚のように諦めればよかったのに、と後悔だけが競り上がってくる。
どうにか惨めな涙を押しとどめ、息を吐き出す。おしぼりを下ろしてみれば、神はジッとこちらを見ていた。
目が合った神は、立ち上がる。
どうしたのだろうと見ていれば、彼はこちらへと歩み寄ってきた。
「……神さん……?」
見上げると、彼の腕が伸ばされ、大きな手が憐二の頭を撫でる。ポンと軽く叩くような調子で、何度も。
呆然と見上げた憐二に、神は苦笑したように眉尻を下げてみせた。
「お前はさ、まだまだ若いだろ? これが最後ってわけじゃない。なにこの世の終わりみたいな顔してんだよ」
神の手は、今度は憐二の髪を掻き混ぜるような乱暴な撫で方に変わる。
思わず目を細めて身を縮めてみれば、微かな笑い声が聞こえた。
見上げた神の笑みに、堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出ていく。
何度拭っても溢れる涙に、神はやれやれと息を吐いて、それでも落ち着かせるように頭を撫でる手は止めなかった。
その力強い優しさは、魚塚とは違うけれど、酷く温かい。
「少年はいっぱい悩んで大人になるんだよ。お前はまだまだ大人になるんだから、しっかり悩め」
「嫌です……悩みたくない……」
「甘えたこと言うんじゃねぇよ」
嗚咽交じりに言い返せば、こつんと頭に拳が降ってきた。涙目で頭を押さえて神を睨んで見れば、彼はケラケラといつものように快活に笑う。
「まぁ、次も駄目だったら、俺がなんとかしてやるよ。だから当たって砕けろ」
「砕けちゃまずいんじゃないですか……?」
言い返して、思わず笑ってしまった。ぼろぼろ涙を流しながら笑っている自分が滑稽で、それでも何故か、酷く心が軽くなったように思えた。
そろそろバイトの時間だ、と時計を見て思った。
近くにあった鏡を見れば、目も鼻も真っ赤で、『俺、泣きました』と言っているような顔だ。
そんな顔を見て笑う神に、不貞腐れたような視線を送ってから、どうにか立ち上がる。
もう大丈夫だ。沢山泣いたから、また前を向ける。
そう促してくれたのは、包み込む優しさのマスターと、背中を無理にでも押してくれる神だった。
まずは神にお礼を、と顔を上げてみれば、先程まで笑っていた神が、妙に難しい顔をしている。
どうしたのかと首を傾げると、暫し言い淀んだ神が、静かに口を開いた。
「なぁ、魚塚も、男が好きだったんだよな?」
不意に問われた言葉の意味を飲み込んでから、きょとんとしながら「はい」と頷いた。
神と魚塚は親友だ。
それも、他の何人も立ち入れないような深い絆を持っている。
だからこそ、魚塚が男性を好きになったことがあることくらい、神は知っていると思っていた。知っていて当たり前だ、という気持ちだった。
簡単に頷いた憐二に、神はそうか、と返す。
「…………好きな人に、キスしたらぶん殴られたって話ですけど」
「……あぁ、そう」
神の歯切れの悪い返答に、まずい、と咄嗟に思う。
どうやら、神は知らなかったらしい。
親友にすら打ち明けていなかったというのに、簡単にばらしてしまったという事に気付いて、背中を汗が伝った。
慌てて弁明しようと口を開いた頃には、既に神は休憩室の扉を開いていた。扉に寄り掛かったまま、こちらを振り返り、首を傾げている。
「行かないのか?」
その声は、いつも通り。
魚塚の話に動揺しているという風には感じなかった。
やはり、神は知っていたのだろうかと自分を落ち着かせて、憐二は歩みだした。
アンティークのような、ほのかなオレンジの光に照らされるバーカウンターで、魚塚は目を伏せがちにしていた。
憐二が近付いていくと、パッと顔を上げ、それからホッとしたように微笑んでみせる。
再度抱き締めてくれた魚塚の温かさは、やはり染み込むようだ。
「ありがとう、マスター、神さん」
そっと吐き出せば、魚塚は切なげに微笑んで、神は苦笑を返してきた。
伏せた瞼の向こうに見えた『あの人』の姿は、もう、追わない。