カシスオレンジ

<カシスリキュール + オレンジジュース>








鮮やかな緋色の扉を開いて、掛けられている銀のプレートを引っくり返す。
店の開店を伝える『OPEN』を示していたプレートを裏返せば、『CLOSED』の閉店へと変わる。

全体を黒で、扉だけを派手な緋色に彩った小さなバーは、そうして短い時間の営業を終えた。



時刻は夜中の一時を過ぎた頃。
建ち並ぶ飲み屋の明かりから、その一帯はまだまだ賑やかさが消えない。
一足先に店を閉めれば、このバーだけが静けさに包まれる。


バーのアルバイト店員である憐二(レンジ)は、疲労と睡魔からの淡い欠伸を噛み殺しながら、ゆっくりと外へと歩み出した。
腕を大きく伸ばして、深い紺色に染まった夜空を見上げる。
上京したての頃は星が見えないことに戸惑ったものだが、今となっては、濃紺ばかりで飾り気の無いこの夜空にも特に何も感じなくなった。
都会の色に染まってきたのかな、等と能天気に思えば、ほんの少しだけ、田舎特有の閉鎖的さが嫌いだった故郷が愛しく思えた。


「憐二。
マスターが、今日は片付けしないであがっていいってさ」


不意に背後から聞こえた声に振り返ってみる。
声の主は今しがた憐二が出てきた扉から半身を覗かせ、満面の笑みを向けてきていた。
姿を確認しなくとも声で誰なのかは解っていたが、その笑みを確認すれば、ホッとした様に釣られて口許が綻んだ。


「じゃあ、牛丼でも食って帰る? すぐり」


憐二が言えば、声の主─すぐり─は真っ白な歯を見せつけて笑った。


「俺、新しいメニューのやつ食いたいんだよね」
「ああ、なんだっけ、CMでやってるやつでしょ?」
「そうそう。ネギがワーッてしてて、肉がドーッてしてるやつ」


楽しげに言いながら、すぐりも憐二と同様に外へ出て腕を伸ばした。

まだ大学生の自分達には、バーの雰囲気は大人すぎる。
会話を邪魔しない控えめな音楽。
グラスの中で密やかに融けていく氷の音。
訪れる客は皆、落ち着いた色気を纏わせていて。
雇い主であるマスター・魚塚(ウオツカ)が作るカクテルは彩り鮮やかで見ているだけで楽しい。
常連たちと魚塚の会話は、どこか哀愁漂っていて、ゆったりとした大人の時間を過ごしていく。

魚塚が営むバー・『C.』は、田舎から上京してきた憐二にとって未知の世界だった。
たまたま勤めたそこで、同い年のすぐりに出会った時は心底ホッとしたものだ。


「今日はオーナーの知り合いが多かったな」


すぐりが言うので、ああ、と相槌を打った。
人当たりが良く男前のマスター・魚塚には、馴染みの客が多い。
今夜は、魚塚と知己の仲の常連客が多く来店していた。


─時折訪れては魚塚に憎まれ口を叩き、それでも楽しそうに時間を過ごす、とある財閥の社長だという神(ジン)。

─隣町で小さな雑貨屋を営む妖艶なラムという女性は、魚塚の大学時代の後輩だという。

─いつもピシリと皺一つ無いパンツスーツ姿に、髪を高く結わえた『デキる女』・伊須木(イスキ)。


この三人はよく来店するから、憐二も何度か話をしたことがある。
皆、サバサバとして格好良い印象があった。

そして今夜、訪れたのは他にも……


「若い人、来てたな」


憐二が呟けば、すぐりは頷いた。
横目ですぐりを窺えば、彼はぼんやりと夜空を見上げている。


「スーツの男と、俺らと同じくらいの女の子」


続けて言えば、すぐりはもう一度頷いてから、指先でネクタイを緩めた。


「あの女の子、高校の頃の後輩なんだよね」
「……声、かけなくて良かったの?」


憐二が問えば、すぐりはニッコリと笑って首を横に振った。


「相手、どうせ俺のこと覚えてないし。
しかも彼氏連れの時に声掛ける程、空気読まない奴じゃないよ」


そう言って笑ったすぐりの目が、僅かに寂しげに見えた。
憐二はそれに気付いて、慌てて目をそらす。
何か、見てはいけないものを見た気がしたからだ。


「さー、帰るぞ、憐二」
「……おぅ」


返せば、すぐりはさっさと店内へと戻って行く。
憐二は、ゆっくりと夜空を見上げた。


すぐりは、あの女の子に何か言いたい事があったのだろうか、などとお節介な事を考えてから首をゆるゆると振った。


俺は、言いたいことがある。


あの女の子と一緒にやってきた、スーツの男性に。


マスター・魚塚とは知り合いの様だった彼は、二十代半ばのスラリとした好男子だ。
いかにもエリートです、というストイックな雰囲気を纏う彼を、憐二は知っていた。


上京してから、何度も彼を見掛けた。
家が近いのかもしれない。

朝、大学への道を歩いていれば、彼を見掛ける。
放課後、バーへと急いでいれば、カフェにいる彼を見掛ける。

もしかしたら、自分が彼を探しているのじゃないかという程に彼の姿を捉えた。

その姿を見ると、ほんの少し高揚した。



彼女、なのかな。
小さく呟いた。

今夜、目の前に現れた彼の隣にいたのは、すぐりの後輩だという可愛らしい女の子だった。
ふんわりとした柔らかな雰囲気がある彼女は、彼を見上げて、頬を少し紅くする。
彼女が彼を好きなのは、すぐ解った。

そして、彼も彼女が好きなのは、すぐに気付いた。



「憐二? 帰らないのか?」


店の中から顔を出したすぐりが、不思議そうに首を傾げていた。
憐二は慌てて微笑む。
緩く締めていたネクタイを外して、大きな深呼吸を一つ。


すぐりが笑顔で迎える店内に小走りで戻れば、ふわりと香ったアルコールの匂い。
見上げれば、すぐりはどうした? と目を丸めた。


「……すぐり、今日奢れよ」


唐突に言えば、すぐりは目を丸めてから「はあ?!」と不満そうに喚いた。
ケラケラと無邪気に笑ってやれば、すぐりは「仕方ねぇな」と苦笑する。
憐二は、すぐりのこういうところが大好きだ。
思わず甘えてしまいそうになる程に、すぐりは優しい。
同い年とは思えない程に面倒見が良すぎる。
隣に居ると、温かくて居心地が良い。


「すぐり、ちょっと聞いて欲しい話があるんだけど」


言えば、すぐりはうん? と首を横に傾げる。


「後で話すから、待ってて」

言いながら、店の奥にある休憩室へと向かった。

すぐりなら解ってくれるかもしれない。

彼に……スーツの男性に抱いたこの気持ちを、どうすればいいか解らないことを。


少しの不安は、アルコールの香りと共にバーへ置いていく。
魚塚の振るシェーカーの音が背中を押した。




2012/4/1
written by 鈴城はるま


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