──"彼女"は、自分を見ても何も言わなかった。
すぐりは、星の無い濃紺の夜空を見上げて溜め息を吐いた。
バイト仲間の憐二と別れて、マンションへの帰路をゆっくりとした足取りで進む。
今夜は、バイト先のバー『C.』が大盛況だった。
憐二と共にマスター・魚塚の補佐をするだけの仕事だが、なかなかに忙しいのだ。
マスターの作ったカクテルを彩りを崩さぬまま客に運ぶのは、意外にも難しい。
それからこのカクテルはあーだこーだと説明して、グラスを洗って、氷を砕いて……
休む暇は無いが、楽しいとは思う。
今夜は、マスターの知り合いが多く訪れた。
ただ、"彼女"は、初めて来店したらしい。
"彼女"は、スーツをスラリと着こなした男性と共に訪れた。
その姿を見た時、胸が酷く高鳴った。
"彼女"は、すぐりが高校の頃に恋心を抱いていた相手だったから。
同じ高校の、一つ年下の、優しげな印象のある小さくて可愛い女の子。
何度も話し掛けようとしたが、遂に果たされずに自分は高校を卒業した。
それから何年経ったと思っている。
今更、また、"彼女"を愛しいと思うなんて。
先程別れた憐二が、不意にこんな事を言った。
「今日さ、好きな人が恋人連れて来たんだ」
こくん、と唾を飲み込んでから憐二の横顔を眺めた。
深夜の牛丼屋のカウンター席。
すぐりと憐二の他に客は居らず、眠そうに欠伸する店員はぼんやりと外を眺めていた。
憐二は、牛丼の上に乗っかった生卵を箸で崩しながら、独り言の様に続ける。
「話はしたこと無いんだけど、見てるだけで嬉しいっつーか、キューッてするっつーか、そんな人なんだけど」
ああ、その感覚はよく解るよ。心の中で相槌を打った。
自分が"彼女"を見ていた時とまったく同じだ。
「何回も話し掛けようって思ったんだけど、駄目だったんだよね。
相手に気味悪がられるんじゃないかとかさ、そうやって後ろ向きに考えんの」
憐二が誰を思い浮かべているのかは解らなかったが、あまりにも共感出来てしまった。
高校の頃、幾度も廊下で擦れ違った"彼女"の横顔が脳裏に浮かぶ。
いつもふんわりと優しく微笑でいる"彼女"を、自分は好きだった。
もしも自分と話した時、"彼女"はもっと笑ってくれるだろうか、と思ったりもした。
もっとその笑顔を見ていたいと願ったこともある。
「幸せそうだった。恋人と一緒にいる時。
滅茶苦茶笑ってた。あんな笑顔、初めて見た」
憐二は言い切ってから、一気に牛丼を口に放り込んだ。
自棄になった様に口一杯に牛丼を詰め込めば、頬袋に木の実を溜め込むリスの様で可愛らしい。
黙って見つめていれば、ゴクンと飲み込んだ憐二は水を呷る。
それから一呼吸置いた彼は、眉を下げてから笑った。
「まぁ、それだけなんだけど」
無理矢理に作った笑顔は、憐二がどんなに辛かったのかを生々しく想像させる。
それなのに憐二はそれ以上、その話題には触れなかった。
憐二がどんな思いで自分に打ち明けたのか、今の自分なら解る気がした。
好きな人が、酷く幸せそうだった。
自分には見せない、一番の笑顔を、自分とは違う誰かに見せる。
そんなシーンを見て、平常でいられるわけがなかった。
"彼女"が恋人に見せた笑顔は、廊下で擦れ違う"彼女"のどんな笑顔とも比較できない程に幸せに満ち足りていた。
──"彼女"は、自分を見ても何も言わなかった。
当然だ。
結局のところ、自分は彼女と一度も言葉を交わさなかった。
交わせなかった。
臆病な自分は、"彼女"の一番になれる自信が無かった。
踏み出す勇気が無かった自分は、"彼女"の記憶にすら残れなかった。
憐二の一言一言を胸の内で反復しながら、マンションの階段を昇る。
『話はしたこと無いんだけど。』
自分も、だ。
一言も話せなかった。
『相手に気味悪がられるんじゃないか』
一度でも相手にそう思われたら、終わりだと思った。
"彼女"が自分を愛してくれることは無いんじゃないか、と。
『あんな笑顔、初めて見た。』
俺もだ。
あれが、"彼女"の一番の笑顔だったんだろう。
とても、綺麗だった。
憐二は、どうするつもりなんだろう。
諦めるのか。
好きなままでいるのか。
これから、何かに向けて踏み出すのか。
高校の頃の自分の様に、踏み止まるのか。
自分は……………
目を伏せて浮かんだのは、"彼女"の笑顔。
まだ、高校の頃の"彼女"の笑顔だ。
握り締めていた部屋の鍵が指に食い込んだ。
痛みで目を開けば、月明かりが自分の部屋の扉を照らしていた。