スクリュードライバー

<ウォッカ + オレンジジュース>










洗い立てのグラスを指紋一つ残さず拭き終えれば、達成感から口元がふにゃりと緩んだ。

そのグラス越しにバーの店内を見れば、閑散としている。

時刻は夜の十二時になる頃。
いつもならば、まだまだ店は賑わっているはずの時間だというのに、一組のカップルが店の端に居るだけで、他に客の姿はない。

訝しげに眉を寄せてから、隣に立つマスター・魚塚を見上げた。

使ったシェーカーやマドラーを綺麗に手入れして片付ける姿は手慣れていて、いつもながら惚れ惚れする程に手際がいい。

魚塚は、同性から見ても色気の有る人だと思う。

今年で四十を過ぎたというわりに色素が薄く透き通る様な綺麗な肌をしていて、血統種付きの猫の様なさらさらと流れる黒髪は少し長くなったからか軽く結わえてある。

真っ白なシャツと黒いベストは、長身の魚塚のスマートな体つきを一層シャープに見せる。
堅苦しいのが嫌いだと第二ボタンまで開け放たれた首元は、浮き出た筋や喉仏が目を惹くほどに色っぽかった。


暫く黙って見つめていれば、チラリと視線を此方に落とした魚塚がクスリと笑った。


「随分熱い視線だな、憐二」


艶やかな低音で言われ、慌てて視線をグラスへと戻した。


「今日は、暇だなーって思ってたんです」


誤魔化す様に口を尖らせて言えば、魚塚は手を止めてから、そうだな、と返した。

「給料日前の月曜日なんてこんなもんだろうな」
「……あ、そっか」

言われて納得した。
給料日前の月曜日などという財布の中身的にも体力的にもキツイ日なのならば、この閑散さにも合点がいく。
とは言え、店の端のカップルが帰ってしまえば客が一人も居ないというのは、あまりにも暇すぎだ。

もう拭くグラスも無いし、と憐二は辺りを見渡す。
残念ながら、自分の仕事は今のところ何も無いらしい。

「今日はすぐりも居ないし、寂しいだろう、憐二」
「んー、そうでもないっすよ」

こんな時に話し相手になってくれるすぐりは、今日は休みだ。
急な用事が出来たから休みが欲しいと、今朝すぐりから魚塚に連絡があったらしい。


すぐりは、『あの日』から少しおかしい。

一週間前。
すぐりの高校の頃の後輩だという女の子が来店した日から。

どこかぼんやりと考え事をしている様に上の空のすぐりの様子は心配だったが、どうしたのかと聞くことはしなかった。
聞いたところで、解決に導ける自信が無かったからだ。


こんな時、魚塚の様に経験豊富な大人の男ならば、すぐりの悩みも取り除けるのかと思った。
見上げれば、魚塚は目元をスッと細めて笑む。


「すぐりの心配より、自分の心配をしたらどうだ」
「俺?」
「憐二も、すぐりと同じ様な顔をしてる」


魚塚の長い指が、憐二の柔らかい頬を掴む。
ポカンと見上げていれば、魚塚はその指で憐二の目尻を撫でた。


「二人揃って恋患い? 仲が良いもんだな」
「恋患いって……!!」


魚塚の言葉に、過剰なまでに反応してしまった。
見透かされていた事に焦ったのかもしれない。
すぐりの悩みの原因と、自分の内にある霧掛かった気持ちが同じだということを。


魚塚はぽんぽんと憐二の頭を撫でてから、背後の棚に寄り掛かった。

何も言わずに此方を見ている魚塚に、溜め込んでいた気持ちが溢れそうになってしまう。
すぐりには結局打ち明けられなかった事も、魚塚ならば受け止めてくれるのだろうか。

結局のところ、自分は、自分の内にあるものの重圧には堪えきれなかった。




「マスター。マスターは、男を好きになったことはありますか」

そんな唐突過ぎる質問に怯まれてしまうかと思ったが、魚塚は顔色一つ変えずに「あるよ」とだけ返した。
その返答に虚を突かれ、戸惑ったまま金魚のように口を開け閉めしていれば、魚塚は腕を組んで微笑んだ。


「まだ若い頃にね。
すごく良い奴だったから、好きになっても仕方が無かった。今でもそう思っているよ」


何の物怖じもせず、一つの昔話として魚塚は言った。
そこに、今憐二が抱えている抵抗感は見受けられない。

「……男を好きになるのは、変じゃないの?」

問えば、どうだろうね、と魚塚は笑う。

「少なくとも、俺は変だと思わなかった。好きにならない方がおかしいくらいに良い奴だったから。
……ただ、それが普通だとも思わなかったけど」

僅かに笑みが苦笑に歪んだ。
もしかしたら、魚塚も憐二と同じように悩んだ日々があったのかもしれない。
そう感じただけで、胸がふっと軽くなった気がした。

それと同時に、その気持ちの果ても知りたくなった。


「相手には、伝えた?」

好きだって。


問うと、魚塚は再度笑ってから目を細めた。

それと同時に、視界の外でカタンという椅子を引く音が聞こえた。
反射的に音の方を見れば、楽しげに談笑していたカップルが帰り支度を始めている。

会計のために彼らに近付けば、二人は幸せそうに視線を交わしていた。


もしこれが、同性同士だったら、と考えて目を細める。
もし自分なら、もし自分が同性の恋人と一緒にいたら。

多分、堂々とは出来ない。
後ろめたさや、恥ずかしさが勝るだろう。

やはり、自分が抱く恋心は普通じゃないのだ。



会計を終えたカップルが、肩を寄せ合いながら店を出て行く。
客の居なくなった店内は、静かに流れるジャズで包まれていた。

振り返れば、カウンターの中で魚塚が手招いている。
素直に隣へと戻れば、背の高い魚塚が僅かに身を屈めた。
普段は決して自分と同じ高さにはならない魚塚の目が、真正面に移動する。

綺麗な紺色の瞳は、都会の夜空と同じ色をしていた。

軽く触れ合った唇が、すぐに離れる。
鼻先には、魚塚が愛用している爽やかな香水の香りが残っている。

意味が解らずに魚塚の瞳を覗き込んでいれば、にっこりと目尻に皺が寄った。


「こうしたら、間髪入れずに殴られたよ」
「な、殴っ……」


笑いながら魚塚は離れていく。
全ての道具を仕舞い終えた魚塚が、呆然としたままの憐二を一目見て肩を竦めた。


「今日はもう店仕舞いだ。送っていこうか、憐二?」
「……マスターに、まだ聞きたいことが有るときは?」


ハッと我に返って、すぐに切り返す。
すると魚塚は苦笑混じりに眉を下げ、首を傾げた。


「一杯くらいなら作ってもいいよ」


片付けたグラスとマドラーを長い指でなぞって、魚塚は言う。
どうやら、まだ付き合ってくれるらしい。
用意されたのは、オレンジジュースとウォッカの瓶。
作るのは……


「スクリュードライバーだ」
「正解」


砕かれた氷がカラカラとグラスの中へと落ちていく。
カウンターの中で座り込んだ憐二は、魚塚の指が緩やかに動くのを眺めた。


カラカラ、カラカラ。
マドラーを揺らせばグラスの中で氷が響き合う。
よく聞けば、軽くて物悲しい音だ。

これからどうすればいいかは解らない。
魚塚に聞いたところで、同じように振る舞えるわけがない。
それでも、このままで終わりたくはなかった。


明るい色の液体が、グラスの中で揺らめく。
見上げたそれは、酷く温かく思えた。





2012/4/1
written by 鈴城はるま


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