カルーアオレンジ

<オレンジジュース + カルーアコーヒーリキュール>









好きになったことに、明確な理由なんて無かった。


"あの人"を初めて見た時は、「仕事が出来そうな人」としか思わなかった。
と言っても、和やかで変化の無いつまらない田舎から上京したての自分にとっては、東京で擦れ違う人間は皆、賢くて上流階級に身を置いている様に見えたのだけど。

つまり、最初は、なんとも思っていなかった。
自分でも気付かないうちに、好きになっていたんだと思う。



────……


追い越して行った靴音に、思わず唇を噛んだ。
憐二は、鼻腔に残った淡い香水の匂いに目を細める。
隣を通り過ぎていく"彼"は、いつもと変わらない少し速い歩調。
ただいつもと違うのは、皺一つ無く着こなしている細身のスーツ姿では無くて、ジャケットにパンツというラフな格好だったということ。


今日は、仕事が休みなのか。

そう考えてから、今日は日曜日だという事を思い出した。
大学の補習に駆り出されていたせいか、曜日の感覚がずれてしまっているらしい。



"彼"との距離が空いたことに気付いて、憐二は僅かに歩調を速めた。

意味は無かった。
まだバーのアルバイトまで時間があるから、少し買い物でもしようと思っていただけだった。


それなのに無意識に、"彼"の後を追っていた。




"彼"は歩調を緩めずに、映画館へと入っていく。
少し躊躇してから、同じように足を踏み入れた。

少し寂れたその映画館は、他では上映されていない様なマニアックな映画のポスターが並ぶ。
日曜日だというのに空いている館内で、"彼"は一つの映画を選んだ。
聞いたことが無いタイトルのフランス映画らしい。
憐二が独断で選ぶなら、決してチョイスしない類いの映画だ。
それでも、少し遅れてから彼と同じ映画のチケットを一枚買う。

近くの新しい映画館に比べれば、席数も圧倒的に少ない。
上映時間を過ぎても、席は半分も埋まらなかった。



"彼"は、後ろから四列目の真ん中の席を選び、憐二はその二つ右斜め後ろに座る。

映画は、憐二には退屈な内容だった。

貴族の女に恋をした、小間使いの男の話が淡々と進む。
悶々と悩む男と、そうとは知らずに愚かなまでに純粋に男を信頼する女。
遂には女は別の男を好きになり、屋敷を離れていく。
男がその後どうしたのかは知らない。
途中で寝てしまったから。



寝てしまうまでは、スクリーンを黙って見つめる"彼"の横顔を眺めていた。
掛けている太いフレームの眼鏡が、いつもと色が違う事に気付いて、少し嬉しくなる。
"彼"を見掛ける様になってから一年が経つが、スーツ以外の"彼"を見たのは初めてだった。

映画は面白くないけれど、同じ物を観て、空間を共有している事も嬉しかった。
いつもはただ見ているだけの彼が、近くに感じた。


真っ直ぐにスクリーンを見つめる彼の、コーヒーの様なブラウンとブラックの混ざった瞳は、すごく好きだ。
凝視するわけにはいかないから、いつも一瞬だけ見るだけだった。
でも今は、"彼"が気付かないなら見ていてもいい。
映画館の薄暗さが、少し憎かった。




目を覚ませば、大きなスクリーンの中でエンドロールが流れていた。

座席からずり落ちた尻を慌てて持ち上げて座り直せば、照明が点いて館内が明るくなると同時に"彼"が立ち上がる。
静かな足音を立てて"彼"が隣を通り過ぎていく。
ゆっくりと十秒数えてから、自分も立ち上がった。

元々観客が少なかった館内には、自分ともう一人の観客しか居ない。
その観客も、ゆっくりとした動作で帰り支度を進めていた。
"彼"も既に外へと出て行った頃だろうか。



ところで、さっきの映画はハッピーエンドだったのだろうか。
真っ暗になったスクリーンを見つめてそう思った。
貴族の女に恋をした小間使いの男は、幸せになったのだろうか。

いや、有り得ないな、と自嘲の様に口元を歪めた。



不毛な恋に落ちた男が幸せになる…、ましてや、本当に愛した相手と結ばれる様な流れでは無かった。
どうせ結末は予測が出来る。


『男は、愛した女が幸せならそれでいいのだと、身を引いた』


自分の幸せなんて二の次。なんて自己犠牲なんだ。感動する。



スクリーンから目を離してから、ゆっくりと出口へと歩き出した。

フィクションでさえ、不毛な、『確率さえない』恋は成就しないものなのだ。
現実世界で、奇跡なんて起こり得ない。

自分が好きになったのは、男だ。

話をしたことはない。

名前も知らない。

それに、恋人がいる。

完璧なまでに不毛な恋を演出してしまったのだ。

この恋は叶わない。
そもそも、叶えようとすら思っていなかったのかもしれない。

"彼"に話しかけることすら出来ないのだから─



──だから、後を追うのはもうやめた。
追っても、何も得られないのだと、自分に言い聞かせた。
諦める一瞬の痛みと、幻想に惑わされ続ける永い苦しみ。
どちらかを選ぶなら、前者だ。

そう、覚悟を決めたつもりだった。







「すみません」

映画館を出る間際、不意に背後から響いた低い声に思いきり振り返った。
それはもう、声を掛けた相手が目を丸めて口を閉ざしてしまう程の勢いで。
そして、そんな反応をしてしまった自分が一番驚いていた。

──声の主は二十代後半ほどの、鋭い印象を与える男性だった。
見慣れない顔に、憐二は暫しジッと見つめてから、何ですか、と静かに返す。
あれだけ酷く驚いておきながら、茶番の様な態度だった。
男性は何事も無かった様に振る舞う憐二に何度か瞬きをしてから、ふと我に返ったのか視線を下げる。
その視線を追えば、男性の手には見慣れた携帯電話が握られていた。


「座席に携帯忘れてたから」

そう言って差し出されたのは、橙色の派手な携帯電話だった。
それは、自分が愛用している物だ。
片手でジーンズのポケットをまさぐれば、そこに入っていた筈の携帯電話は無い。
どうやら、映画館の椅子の上に落としてきてしまったらしい。


「………すみません。ありがとうございます」

頭を下げてから、男性の手から携帯電話を受け取る。
いえ、と緩く首を横に振る男性を眺めてから、ソッと視線を手元の携帯電話へと落とした。

もう一度礼を言って、すぐに踵を返す。
背後の男性が何か呟いた気がしたが、振り返らずに踏み出した。
愛想の無い態度になってしまったのは自覚があった。

いつもの自分なら、物を忘れた恥ずかしさが勝って、誤魔化す様にケラケラと笑いながら男性に礼を言い、笑みを崩さぬままに去っているところだろう。
それなのに、今は。

逃げる様に映画館から離れた。
賑やかな街並みを大股で進んで、どんどんと人を追い越していく。
振り返らないし、振り返れない。



振り返った先に居たのは、"彼"ではなかった。
"彼"と比べればストイックな鋭利さが無い、けれど彼よりも鋭い刃物のような印象がある男性だった。
"彼"と比べれば身長も随分高かった。
"彼"と比べれば渋い色合いを好んでいる様だった。
"彼"と比べれば、………




酷く間抜けだと思った。
何を期待していたのだろう、と笑いが込み上げてくる。

人混みを抜けた閑散とした道に出た瞬間、足が止まり、途端に目頭が熱くなる。
ふるふると視界が左右に揺れた後、頬を熱い雫が伝い落ちていった。
自分の意思とは関係無しに流れ落ちてくるそれは、酷く鬱陶しい。


声を掛けてきたのが"彼"だと思ったなんて、なんて馬鹿なんだろう。

諦めると決めたくせに、まだ幻想にすがり付いているなんて、なんて愚かなんだろう。
ぼたぼたと顎を伝って落ちていく雫を拭うことはしなかった。




こんな間抜けな欲求の塊が、この涙と一緒に流れ落ちてしまえばいい。

結局は自分もあの映画の主人公と同じなんだ。
『好きな相手が幸せならそれでいい』なんて、自分に対する言い訳でしかなかった。

諦める勇気が無いから想い続けて、相手の幸せをひたすらに願うだけの弱虫だった。

そして、その実、どこかで期待は捨て去れなかった。
いつか、いつか、もしかしたら───



現実は痛みでしか迎え入れてくれないもの。
解っていても、切り捨てられない。
痛みから逃げる様に駆け出せば、伝った雫が首筋に落ちていった。



静かな街路樹を通り過ぎれば、あの小さなバーが見えてくる。



2012/5/5
written by 鈴城はるま


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