ようやく言葉が口をついて出てくる。
「普通の村人」
 俺はしらっと答えた。実を言えば、俺の父親がちょっとした変わり者で、幼い頃から武芸や身のこなしについて多少鍛えられていたのだが、それは心の中だけで呟いておく。
「村人って忍者みたいだね」
 どうやら間違った認識を与えてしまったようだったが、とりあえずは黙ってニコリと笑っておいた。
「さてっと、次はどっちに行けばいいかな?」
 身を低くして周りを窺う。屋根の上というのは人目に付きにくいようでいて実はとても人目に付きやすい、こんな昼間ではなおさらだ。
「あ…たぶんあっち、庭園が見えるでしょ、あそこに面して母さまの寝室だから」
「よしっ、じゃあ行くぞ」
「うんっ!」
 もうここまで来たら引き返せない。屋根の上を俺達は駆け、庭園の脇まで来て降りられそうな場所を探した。
「ん〜あそこかな、アジェこっち」
「うっ、うん」
だが、言いしなアジェは小さな悲鳴をもらした。足を滑らしたのだ。
「うわあぁぁ!」
 それはどちらの悲鳴だったか、心の準備がなかった為アジェを助けようと手を伸ばした俺もろとも二人はあっけなく庭へと転落した。
「うっ、いったぁ〜」
 それでもアジェを庇い下敷きになって落ちた俺は、腰をさすりながら身を起こした。幸い庭園の植木がクッションになってくれたおかげで怪我はかすり傷程度だった。
「おい、大丈夫か?」
 上に乗っかったまま動かないアジェに声をかける、だが返事はない。どうやら気を失ってしまったようだ。
「あ〜どうすっかな…」
 頭を掻きながらあたりを見回す…と庭園の花の真ん中に花束を抱えて立ち尽くす女性と目が合った。どうやら突然目の前に降ってきた二人に驚いて悲鳴も出せず立ち竦んでいたらしい。
「あ〜えっと、怪しい者じゃないですよ」
 充分怪しい。悲鳴など上げられたら困る、たくさんの言い訳が頭をよぎった。
「あ〜領主様の奥方様の寝所ですよね?えっと、アジェが…あっいやアジェ様がどうしても母上様に会いたいって言うんで…」
「…アジェ?」
 その声は少女の声のように軽やかだ。俺はその時初めて女性の髪が母や自分と同じ白味がかった黄金色である事に気がついた。女性はゆっくりとこちらに近付いて来る。
「おっ、奥方様?」
「アジェ?アジェなのね?」
 女性はふわりと笑った。
「えっ?あ、はい……?」
ここに、とアジェを指差そうと振り向いた瞬間、俺は奥方様に抱きしめられた。驚きは声にならず瞬間硬直する。
「アジェ、会いたかったわ」
「ちょっ、ちょっと待って下さいっ!」
動転して俺は奥方様の身をがばっと引き離した。どういうことだ?普通の親が実の子供の顔を見間違えたりするものか??
「どうしたの?」
奥方様心底不思議そうな顔で俺の顔を見た。
「最近あなたは全然母の寝所には寄り付いてくれないのですもの、母は心配していたのですよ」
??全く話が見えない…目が見えない、とかそういう訳でもなさそうだよなぁ?でもアジェは会わせてもらえないとか言ってなかったか?
「あ・あの、違いますよ?アジェ様はあっち。俺…僕はエディット=ラング、しがない大工の息子です」
「?何を言っているの?また母をからかって」
「いや、でも…」
 からかっている訳でもなんでもないし、俺の方こそ奥方様にからかわれているのか?ぐるぐると思考が回る。
「奥様っ!」
言葉に詰まってしどろもどろしていると騒ぎを聞きつけて女給が一人駆けつけて来る、母だった。
「あら、レネ来ていたのね。見て、私の息子のアジェよ、あなたと会うのは初めてだったかしら?」
 小首をかしげて奥方様は母に笑いかける。母は困り顔で頷いた。
「かっ、母さ…」
 言いかけた呼びかけは母の鋭い目付きで黙らされた、とりあえずお前は黙っていろ!とその目は語っていた。
「ええ、ええ、奥様。アジェ様にお会いになるのはお久しぶりでしょう、お話したい事もたくさんおありでしょうし、今お茶でもお入れしましょうね」
「そうね、素敵、そうしましょう」
 楽しそうに奥方様は笑う。俺は植木の向こうのアジェにチラリと視線を走らせた。幸いにも彼はまだ気を失ったままのようだ、動かない彼を見て俺は少しホッとした。少なくとも今のこの光景を彼には見せたくなかった、見せてはいけない、そう思ったのだ。
「さあさ、奥様こちらへ、アジェ様もどうぞ」
 どうぞ、と言いながら、母にとりあえず何も話すなと耳打ちをされた。その声は母を怒らせた時の声で、俺は身の竦む思いだった。
 お茶を出されてもどうしていいか分からず、とりあえず言われるがままに飲むものは飲み、食べるものは食べ、奥方様の話に適当に相槌をうってなんとかその場を取り繕う。味などまったく分からなかった、高級品だっただろうに…
 しばらくすると奥方様は少し疲れたと言って寝所の方に戻っていった。また遊びに来てねと微笑む奥方様に俺は曖昧な笑みしか返せなかった。

「まったく、あんたって子はなんて事してくれたんだろうね」
「…ごめんなさい」
 縮こまって母に謝る。アジェはまだ眠っていた。母はアジェを小さな小部屋に運ぶと、その顔を悲しげに見つめ、この状況をどう話そうかと考えあぐねている様子だった。
「あのね、エディ、奥様は心の病なのよ…」
「心の病?」
体ではなく、心が病んでいる?確かに奥方様はよく笑い、よく話し、一見とてもお元気そうに見えた。
「そう、昔、もう十年くらい前の事になるけれど、御子様を事故で亡くされてね」
「アジェの…アジェ様の他に御子様がいたの?」
 呼び捨てに睨まれてあわてて言い直す。母は静かに首を振った。
「奥様は体の弱い方だから、御子様はアジェ様お一人しか授からなかったわ」
「でも…だったら」
「この子は…」
 母は傍らのアジェの髪をやさしく撫でた。
「この子は領主様御夫婦に拾われた捨て子だったのよ」
 母は静かに語りだした。

 この話はこのお屋敷でも一部の人間しか知らない事なの、と母は言った。
 昔、領主様夫婦とまだ幼いアジェとでピクニックに出かけた時の事、御公務から離れてのお忍びの外出はお供もほとんど連れず、本当に内々の小さなピクニックだった。
 ルーンからそんなに離れてもいない小さな森の木陰、傍らには川も流れ、とても平穏な時間、小さなアジェが笑ったり泣いたりする事に一喜一憂しながら御夫婦はその時間を楽しんでいた。
そんな時、川の上流から小さな編み籠が流れてきたのだ。中からは赤ん坊の泣き声、二人は慌ててその籠を拾い上げると、籠の中にはまだ一歳にも満たないであろう赤ん坊がぐずるようにして入っていた。奥方様はその時もう二人目の御子様を望める体ではなかったので、二人は赤ん坊をアジェの兄弟として育てようと決めた。奇しくもその赤ん坊の髪は奥方様の美しい髪の色と同じ色をしており、きっとこの子供は神様からの授かり者に違いないと思ったのだ。
「まぁ可愛らしい、アジェ、あなたの弟よ、仲良くしてね」
「おとーと?」
「そうよ、弟。アジェは今日からお兄ちゃんね」
 その姿は誰もが仲の良い家族だと思っただろう。領主はそれは幸せそうに妻と子供達を眺めて微笑んでいた。
そんな時、悲劇は起きたのだ。
「きゃぁぁっ!」
黒っぽい狼にも似た獣が突然脇から飛び出してきてギラギラとした瞳でこちらを睨み、うなり声をあげる、奥方様は赤ん坊を抱え、アジェの手を引くようにあとずさる、それを庇うように領主と従者は獣と相対するが、獣の瞳は小さな獲物、子供達を狙っていたのだ、獣は宙をひらりと舞い領主達を飛び越えてしまうと幼いアジェに飛び掛った。
「アジェ!」
それは一瞬のことで誰もが動く事が出来なかった、獣は幼いアジェを咥えるとそのまま森に逃げ込んで行ってしまったのだ。すぐに従者が後を追うものの、その姿はすぐに木々の陰に消えていってしまった…

「それじゃあ、アジェ様は…」
「ご遺体はまだ見付かってはいないけれど、おそらくは…」
 獣に骨も残らないほどに食い尽くされてしまったという事か?
「そんな、でも、じゃあこっちのアジェ様は…」
「奥方様はあまりのショックに心を病んでしまったのよ、この子をアジェだといって離さず、それは大事に大事に慈しんだ。誰もそれをやめさせることなど、ましてや、取り上げる事などできなかったのよ」
「でも、だったら…」
 自分をアジェと間違えるのはおかしいではないか。何故それならアジェと会う事を禁じるのか。

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