目を覚ますと、周りはすでに暗く、見知ったメイドが傍らに置いてあったランプに火を灯そうとしている所だった。どのくらい眠ってしまったのだろう?
「あら、ごめんなさい、起こしてしまいましたね」
 すでに意識が戻っている事は知っていたのだろう、にこりと笑ってメイドは言った。
「いえ、大丈夫。もう充分過ぎるほど寝ましたから。これ以上寝てたら脳が溶け出しそうですよ」
 言葉にメイドは更に笑い、お元気になられたみたいで良かったわ、目が覚めたら呼ぶように言われているから領主様を呼んできますね、と部屋を出て行こうとする。
「あ、あの、アジェ様は戻られましたか?」
「いいえ、一体どこへ行ってしまわれたのか…結局あの晩何があったのか、お客様が誰だったのか、私達には何も知らされていないの、エディは何かご存知?」
 逆に問われて小さく首を振る。領主様が何も語っていないのなら、自分の口から語れる事は何も無かった。
 ぐぅう〜間の抜けた音が沈黙を破る、そういえば起きてから何も食べていない。
「今、何か食べる物お持ちしますね」
 笑いをかみ殺すようにしてメイドは部屋を後にした。
 もうすっかり日は落ちているというのにアジェはまだ戻っていないらしい。グノーはアジェと合う事が出来なかったのだろうか…最悪の考えが頭をよぎる。
 考えてはいけないと思いつつも次から次へと不吉なビジョンが頭を飛来する。恐ろしい考えを振り払うように頭を振り、窓の外を眺めると、部屋の扉をコンコンと叩く音が響いた。
「目が覚めたと聞いて来たのだが…」
 ノックと共に現れたのは領主だった。
「領主様!」
驚いて飛び起きるが、体の痛みにうめいて傷口を押さえる。
「いい、いい、寝ていろ。傷口が開くぞ」
 言って領主はエディをベッドに押し戻す。領主ジョゼフ=ド=カルネは非常に気さくな人柄だった。アジェもよく領民の間をなんの分け隔ても無く飛び回っていたが、その姿はジョゼフによく似ていた。
 奥方様が心を病んで御自分が辛い時にも、気を使う周りを逆に気遣い笑ってみせる、そんな人物だ。
「領主様すみません、アジェ様を、守りきれませんでした」
「まだ死んだとも、捕まったとも報告は受けていない…アジェは無事だと信じている」
 沈黙が流れる、何をどう話していいか分からなかった、それはたぶん領主様も同じだったのだろう、気まずい空気が居たたまれない。
「私は…」
 先に重い口を開いたのは領主様だった。
「私は、ランティス兵の話を聞いた時、もしかしたらアジェはランティスに戻ったほうが幸せなのかもしれない、とそう思ったのだよ」
「え?」
領主様は笑っていいのか困っていいのか複雑な顔をする。
「ここでのアジェの生活は決して幸せなものではなかった」
「そんな事は!」
 無いと自分に言い切れるのか?言葉を濁して考える。幼くして父母は父母でないと知り、母だと思っていた人は、自分の存在すら記憶から消してしまった。
 アジェはアジェであると共に、自分自身の名を持つことすら許されずに領主様の実子である『アジェ』の見えない影に支配されていたのではないか?
「しかし、あそこで君とアジェに会って、そんな考えは吹き飛んだよ。私はアジェを愛している、失いたくはない。それを君は気付かせてくれた、ありがとう」
 何者からも、運命からもアジェを守ろうという強い瞳は、領主の弱気な心を吹き飛ばした。
「俺っ……私はアジェ様を守りたかっただけです」
 誰からも、何からも。それは友人や家族に対するものではなくもっと強く、自分はアジェを愛しているから。その自覚は年を重ねるごとにはっきりしてきた、幼い時に守りたいと思ったのは自分より小さい者を守らなければという保護欲と使命感だったかもしれない。しかし、今はもうすでにそれは違うという事は分かっている。
 誰にも、アジェ自身にも言うつもりはなかったが、アジェを心から愛している。その想いが実を結ぶことはないと知っていても。
「アジェは君のような友を持って幸せだな」
 領主はにっこりと笑った。
「…領主様」
「君には、私は父とは呼んでもらえんのかな」
「領主様、私はっ!」
「分かっておるよ。今更、父だ子だと言っても、それは形の上だけの事になってしまう。私はアジェを我が子だと思っているし、君はブラックを父だと思っている、そうだろう?」
「そう、ですね」
「それでも、私は君が血を分けた私の息子であった事を誇りに思う。アジェを想うように、私は君も我が子として愛してもいいだろうか?」
「アジェ様には…知られたくないです」
 沈黙が流れる、複雑な思いはお互い様だった。十五年の歳月は親と子の間に埋められない距離を置いてしまった。全く面識もなければ素直に父とも子とも呼べたであろうに。
「そうだな、私もアジェをこれ以上苦しめたくはない…それでも、一度でいい、私を父と呼んではもらえないだろうか?」
 ガタンッと突然部屋のドアが軋む、二人は驚いて扉を見つめた。
「バ〜ット、タイミング」
 場にそぐわない呑気な声が響く。声はグノー、扉の前に佇んでいたのはアジェ…顔色は悪く、面やつれしたその顔は蒼白だった。
「いつから、そこにっっ!」
 叫ぶとアジェはビクッと震えた。
「うん、ごめん、聞くつもりはなかったんだけど、なんか、聞こえちゃって…」
「アジェ…」
「なんか、よく分かんないけど…えっと…ごめんっっ!」
 アジェはグノーを押し退けるように踵を返して駆け出した。
 アジェは混乱していた、何もかもが分からなかった。追いかけられていた意味も、今の会話の意味も、すべて。
ただ分かった事は何かが自分の周りで起こっているという事、そして、それが自分にとって愉快な事ではないという事だけであった。
どこをどう走ったものか、アジェは暗い木々の間に糸が切れたようにへたりこんだ。
父?父さまがエディの父?エディが本物のアジェ?なの?なんで?じゃあブラックは?エディの家族は一体…?
疑問符ばかりが頭を巡る。
「じゃあ、僕は、もういらない…?」
 知らずに涙が込み上げてくる。
「アジェ様っ!」
 暗闇の中、うずくまる背にようやく追いつく。もしかすると傷口が開いたかもしれないが、そんな事は構っていられなかった。アジェが先ほどの話を聞いていたのなら、どれほど混乱し、傷付いているかは一目瞭然だった。
「エディ…?」
「アジェ様っ、話を、聞いてくださいっ」
「僕はアジェじゃない」
「アジェ様?」
「アジェじゃない!僕には生まれた時から名前なんか無いんだからっ、どこにも居場所も無い、僕は透明人間だからっ、誰も僕を知らない、本当の僕なんか知ろうともしないっ!」
「それでもっ、俺にとってアジェはお前だけだっ!」
 うつむくアジェの肩を抱き寄せ、懇願するように呟く
「お願いだから、自分を否定するな」
 アジェの指がすがるように腕に食い込む。
「分からないよ…僕は誰?エディ怖いよ、何も聞きたくない、知りたくない」
 しがみついた体が小さく震える、まるで命綱に掴まるかのようにアジェはしがみついて震え続けた。
「あなたは誰がなんと言おうと十五年間あなただった。それは誰でもない、あなたの生きた証なんだ、あなたは確かに今ここにいる。私はあなたが、あなただから今までお側に仕えてきたのですよ?私は領主様の息子だからあなたに仕えていた訳じゃない」
「エディ、でも…」
「信実なんて知らなくていい、私はあなたに仕え、あなたと共に生きるともう決めてしまっているのだから」
「でも、エディが本物のアジェ…なんでしょ?」
 アジェが身を離すように身じろぎをする。
「でまかせかも知れない」
「父さまがそう言ったよね?我が子だって言ったよね?」
「証拠も無い」
 離れていこうとするアジェの体を構わず抱きしめ何も聞くなと、心で祈る
「だけど真実を知っている人がいたんだよね?話して」
 話してしまった方が良いのかも知れない、でも話したくなかった、話せばこの関係は終わってしまうと恐れていた。怖かった。アジェも怖いと言ったが、自分も怖いのだ。
自分が領主様の息子である事も、アジェが本当はランティス王家の子息である事も今となってみれば確かな確証はひとつとしてないのだ。一方的に語り、父母はもうここにはいない、本当に本当の信実なのかと問いただす事もすでに出来ない。
領主様がこの話を信実だと認めているのなら一応の辻褄は合っているのだろうが、証拠などどこにもないのだ。
「エディの髪、昔はすごく羨ましかった。母さまと同じ髪」
「隣国じゃ珍しくもないですよ、うちの母だって同じ色だ」
「でも、ルネもジャンもジャックもユマもみんな黒だ」
「弟も妹も親父の血がちょっと濃いだけですよ」
 確かに弟妹はみんな見事に親父によく似た漆黒の黒髪だった。
「話して、くれないの?僕はなんで追われていたのかも知らない。あれは僕を狙っていたんでしょ?領主の息子でもない、ただの捨て子の僕を何故襲う必要があったの?父さまの所に来ていた人達は一体誰?」
「………」
 どのみち隠し通せる事ではないことは分かっていた。事は大きくなりすぎている。
「…すべて、お話します」
 アジェの足元に跪き、頭をたれる。本当は話したくはない、それでも…
「アジェ様、あなたはランティス王国、国王のご子息です」
「何…?なんで?信じられないよ、何それ?」
 ひとつひとつ反芻するように、今までの経緯をアジェに語る。アジェは、嘘だ、信じられないと首を振りながら、それでもひとつも聞き逃すまいと話に耳を傾けた。
 その内容はやはり俄かに信じられる事ではなかったが、二人の周りですでに事態は動き出していた、冗談でも何でもなく、命すら狙われて、それが信実である事を認めざるをえなかった。
「でも、なんで追っ手はこんなにすぐにいなくなったんだろう?僕はまだ、ここにいるのに…」
「ブラックが騙くらかしてあらかた連れてったのさ」
 グノーだった。
「あんまり遅いんで来ちゃいましたよ。まだこの辺も絶対安全とは言い切れませんからね」
「親父が連れてったって?」
「俺もあまり詳しい事は分かりませんがね、追っ手は全員ブラックを追って行ったそうですから、なんかやったんでしょう」
「そうか…」
 父は慌しく旅立ったわりに最後までやる事はやって出て行ったらしい。
「さぁさ、お二人さん、そろそろ帰りましょう。夜風はもう冷たいですからね」

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