それから数日、俺達はまるで何もなかったように、誰も、何も言わず日々を過ごしていた。誰もがそのままの平穏が続けばいいと願っていたからなのだろうか、それは今となっては分からないが、少なくとも俺は、この日常が今までと変わらず続く事だけをただひたすらに祈っていた。
 それぞれが皆複雑な心を抱えていたと思う、しかし、領主様は俺の事をもう我が子と呼ぶ事はなかったし、アジェはいつもの通り笑っていた。グノーはとりあえずしばらくここでのんびり過ごす事に決めたのか日々村の中をぷらぷらしていたし、当の俺も走った為に傷口が開いて、医者に厳しく怒られながらも順調に回復していった。
「エディ、ちょっといい?」
 もうすっかり日常動作に支障なく回復した頃を見計らったように、ある晩、アジェはたくさんの花と酒を持って俺の部屋を訪れた。
すでに生活するのに支障がなくなっていた俺は自宅に帰る事を考えていたが、どのみち帰ったところで誰もいない我が家だった、領主様の勧めもあり、俺は屋敷の一角に小さな部屋を与えられ、そこで寝起きするようになっていたのだ。
「夜分にごめん。母さまに渡してもらおうと思って、これ、また渡してきてもらっていいかな?」
 それは奥方様の好きなリンドウの花だった。どこまで取りに行ったものか、その花々は夜露にぬれてキラキラ輝いている。
 アジェはこうして花を抱えては奥方様に渡してくれとやって来る、それは特に珍しい事ではなく、今までにも何度もあった事だった。
「また、たくさん摘んできましたね。構いませんよ、一緒に参りましょうか?」
「ううん、こんな晩に友達連れもおかしいだろ?」
「そうですか?」
「うん、ここで待ってる。今日は満月だし、お月見にはうってつけだよね」
「ああ、そういえば」
 確かに今夜はすっきりとした夜空に雲もなく、丸い月が静かな光で景色を映し出している。
「せっかく持ってきたし…一杯どう?」
 酒を勧められて、少し躊躇する。特に悪い事ではないし、子供の頃から飲んでいるそれは、飲み水と大差なかったが、それはあまりアジェにはそぐわない行動のように思われたのだ。
「感心はしませんね…でも、せっかくですから戻ってからいただきますよ」
 酒は嫌いではない。しかし、アジェが酒持参で自分の元を訪れた事など過去一度もなかったのだ、不自然さは否めない。アジェ自身も飲める事は知っていた、だがそれは付き合い程度で、おそらく好んで飲むほど好きではない事も知っていた。
 なんだかとても落ち着かなかった。たくさんのリンドウを抱え、奥方様に手渡しながらもその思いは消せず、話もそこそこに俺は部屋に戻った。
「あれ?早かったね?」
 不安をよそにアジェは出て行く前とさほど変わらぬ姿勢で月を眺めていた。月明かりだけでも部屋はずいぶんと明るく、しかし、月を背後に佇むアジェの表情は暗くてはっきりとはしなかった。
「怪我に気付かれる前に戻ってきたんですよ、心配させてしまいますからね」
「あ、そっか。ごめん。まだ痛む?」
「もう、平気ですよ」
 言った言葉に、それでも申し訳なそうにアジェは視線を外す。
「…昔からエディには気を使わせてばっかだね、ごめんなさい」
「好きでやってる事ですから」
「…ありがとう」
 アジェが微かに笑うのが見てとれた。アジェの笑顔が好きだ。いつでも笑っていて欲しいと願うくらいに。だが、今日のアジェの笑顔は少し寂しげで不安になる。
「一杯、どう?」
「いただきます」
 持参できたグラスに酒を注ぎ手渡される。
「そういえば…エディとお酒飲むの初めてだっけ?」
 軽く酒に口をつけアジェは少し考えるように呟く。
「そうですね、パーティの席などでは私もあまり飲みませんし」
「…いつからだったかな、その敬語。昔はタメ口だったのに」
「子供でしたからね」
 素知らぬ顔でグラスを傾ける。敬語はあえて使うようにしているのだ、自分に言い聞かせるように、この方は自分の手の届く人ではない、と。
「でも、この間は昔に戻ったみたいだった。昔からエディは無茶ばっかりで…」
 幼い頃を思い出したのかアジェは笑う。この間の事件と、幼い頃の思い出とでは危機感が全く違うだろうに
「嬉しかったな、久しぶりにアジェって呼んでもらえて。二人だけの時は前のままでも全然いいのに」
「けじめですから」
「頑固者」
「なんとでも」
「…でも」
 一瞬の沈黙、アジェはうつむく。
「エディのそういう所、好きだよ」
 顔が赤い。
「ちょっと酔ったかなぁ、もう寝るよ」
 言って照れたように笑い、アジェは立ち上がる。俺はとっさに頭より先に体が動いてアジェの腕を掴んだ。どうしてそうしてしまったのかは自分でも分からなかった。
「なに?」
「あ、いえ…」
 なんだかふわふわしていた、何かを言わなければ、手を離さなければと思うのだが、頭の中は真っ白だ。
「エディ」
 名を呼ばれて腕を放す。しかし、離された腕はそのまま自分の首にするりと回って引き寄せられる。何が起こっているのか、分からなかった。自分の思考が完全におかしくなっていた。
「今まで、ありがとね」
 触れるだけの軽いキスだった。そのまま、アジェを抱きしめてしまえれば、あるいは止められたのかもしれない。だが、俺はその時そのままその場に倒れこみ、完全に意識を失っていた。


「あいつは連れて行かないのか?」
闇にまぎれて出て行こうとした背に声をかけられ肩をすくめる。
「なんか、いつもタイミングが良いんだか、悪いんだか」
「どうだろうなぁ、まぁそんな事より、いいのか?エディの奴置いてって」
 どこから現れたのか分からないがグノーは言って、怒るぞ〜と笑う。
「連れて行けないだろう?…そもそも、この場所にそぐわないのは僕だけだ」 
「そのセリフも奴が聞いたら、また怒るだろうなぁ」
「分かってる」
「だから黙って行くのか?」
「うるさいよ」
「宛てはあるのか?」
「関係ないだろ」
「まぁなぁ、ぼっちゃんの気持ちも分からんでもないがなぁ」
「付いて来るなよっ」
 歩く後ろを、グノーは月を見上げてひょこひょこ歩く。
「奴は追ってくるぞ」
「…………」
「本当は、追わせたいんじゃないのか?」
「…………」
「好きなんだろ?」
「うるさいっ!知ったような口利くなっ、なんにも知らないくせにっ!」
 振り向いて怒鳴ると彼は肩をすくめて言う
「そうさ、俺はなぁ〜んにも知らない。知らないのに渦中に放り込まれて、これでも怒ってんのさ。このまま全部中途半端に放り出されても、腹の虫が治まらないの、分かるか?」
「…………」
 そんな事は自分の知ったことではない。勝手に巻き込まれてきたのはそっちじゃないか!とむしろ怒鳴りたいくらいだ。
「だ〜か〜ら、俺はお前に付いていく事に決めたんだ」
「はぁ?」
 心底迷惑だと思う。あからさまに嫌な顔をしたのに気付いたのか気付かないのか、グノーはにっと笑う。
「どうせ、向かうはランティス王国だろ?俺は強いぜ〜一人旅は危険がいっぱいだしな」
「変な人だね。僕に付いて来たってなんの得にもならないよ?もし王家の宝とか狙ってるんだったら、お門違いだから。そもそも僕は自分が王の子だとも思ってないし、証拠もない」
 言うと、そんなモンには興味はねぇとグノーは笑った。
「俺の楽しみは別の所にあるから、まぁ、気にするな」
「…楽しみ?」
楽しい事など何かあるのだろうか?だが、本当に心底楽しそうにグノーは歩いていくので、首を傾げつつも、まぁいいか、と思う。実際一人旅にはとても不安があったのだ。そもそも国の外どころか、自分はカルネ領から出た事すら一度も無いのだから。
一方グノーは人の不幸は蜜の味、とほくそ笑む。もし目を覚ましたエディが、アジェと共に自分までも姿を消している事に気付けば、それはさぞかし驚くだろうなぁと思うのだ。最愛の人が自分を好きだと言って、にもかかわらず、そのまま姿を消してしまうのだ、自分以外の男と。普段とりすましている人間なだけにその想像は笑いを誘う。その姿を自分の目で拝めないのは残念だったが、エディはどのみち追って来るだろうし、それまではお姫様を守っておかなければ楽しみも半減するというものだ。
「本当に変な人」
「変で結構。さぁ、行くぞ相棒!」
「はいはい」
 なんでグノーがそんなに張り切っているのか分からないが、とりあえずは落ち込みがちな気もまぎれていいか、と気を取り直して軽い足取りのグノーの後をアジェは小走りに追った。


 目覚めは最悪だった。固い床の上に放置され(おそらく体格差があるので運ぼうにもアジェには運べなかったであろうが)酒の中に睡眠薬でも入っていたものか、ひどい頭痛がした。
 意識を失う直前、聞いた言葉を覚えている。触れた感触が鮮明に残る唇をかみ締め、夢であったらと思うが、頭痛がそれを否定した。
 痛む頭ときしむ体を抱えて、アジェの部屋へと足早に向かう、おそらく自分の勘が外れていない事は分かっていたが、それでも、信じたくないという思いが無意識に体を動かしていた。
「くそっ!」
部屋は案の定もぬけの殻。キチンと片付けられた部屋には生活感すら漂っていない。前々から少しずつ計画を立てていただろう事は一目瞭然だった。
壁を背にしてずるずると座りこみ頭を抱える。
礼なんか欲しかった訳じゃない、ただ側にいさせてくれればそれだけで良かったのに、完全に置いていかれた。
手離したくなかった、一人で立っていられないのは自分の方だと知っていた。アジェの強さに焦がれ、弱った時には側で支えるのが自分の役目なのだと信じていたのに…
「俺を、置いていくなよ」
 みんなが自分から離れていった、賑やかだった家族も今はどこいるのか…それでもアジェさえいればそれだけで満足だった、何も欲しいとも思わないのに…
 腕に残るアジェの感覚、抱きしめればすっぽり収まる小さな体。壊してしまいそうで、否、自分の気持ちを抑える事が出来なくなりそうで、ここ最近は触れることすらできなかった。
 大事に大事に守っていたのだ、なのに…
 机の上、目の端に何か手紙のような物に目が止まる。
「書置き?」
 机の上には二枚の封書、一通は領主様宛、そしてもう一通は俺に宛てた物だった。
 読みたくない!という思いと、何が書かれているのか?という思いが交錯する。手が震えて封は思うように開かない、いらいらと破り捨てるように封を切るとそこにはアジェの見慣れた文字が並んでいた。
 

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