きつねとちき部屋。

□とちきとの翌朝・B。
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早朝のやや遅めといった時間帯は、無限城下層階では朝市が終焉に向かいつつある時間帯だった。残り一本の沢庵を取り合うような喧騒の中を巧みにくぐり抜け、十兵衛は俊樹を連れてサウスブロックの薬屋へと向かう。
朝、家を出る時に持参していた段ボール箱(昨夜、俊樹が入っていた)は、電脳の天才児である彼の若い主に預けてきていた。箱に残った指紋から、俊樹を捨てた人物の割り出しができないかと思っての事だが、恐らく可能性は低いだろう。
「俊樹、こっちだ」
「きゅ!」
子狐は案外健脚で、子供には少しばかりきつい移動距離を難無くついて来る。程なく、薬屋ゲンの診療所兼薬屋のある古ビルが見えてきた。

「これは、珍しい子を見るものじゃ」
老いた薬屋は男勝りの孫娘に採血の準備をさせながら、俊樹の脈をとった。触診に当たって、尻尾に触る事だけは頑として幼い本人が拒んだのだが。
「はい、ジィちゃん」
優秀な助手であるレンが祖父に差し出したのは、今時何処の小学校でも使用しないような耳たぶから血を採る採血機だった。手入れはよくされているらしく、これが無限城での唯一の採血の道具として現役で働いているのだ。
「さて、坊や。耳たぶを出してごらん」
「きゅ」
特に嫌な事もされなかった俊樹は、何の警戒心も持たずに左の耳たぶを出した。採血機が薄い耳たぶを挟む。
ぱちん。
「きゅっ!」
途端にじたばた暴れ出す俊樹の肩を押さえるのに、十兵衛はてこずった。源ジィは手際よく採血して、さっと俊樹の牙が届かない安全区域まで退避していた。
「さ、これで終わりじゃ。血が止まるまで剥がしてはならんぞ」
血を採られた跡に小さな絆創膏を貼られた俊樹はぷくーと膨れて、十兵衛の手を振り払い部屋の隅っこにうずくまった。
「どうした、俊樹」
「いたくちたの!」
「注射でなければ、かまわんだろう?」
「や!」
頑固になってしまった子狐を宥める為に、老医師は傍らのガラス瓶から飴玉を一つつまんで差し出す。
「痛かったか。それは済まんの。ほれ、これを舐めて機嫌を直してくれんか」
俊樹は皺の深い掌の上の飴と、十兵衛の顔を交互に見る。
「じうべ。とちき、あめもらっていいの?」
「ああ、かまわんぞ。源水翁の詫びの印だからな」
俊樹は立ち上がり、飴玉を受け取った。
「げんじぃ、あめ、ありがとなの」
「おお、機嫌が直ったようじゃな。よかったものじゃ」
枯れた掌で金髪を撫でられると、俊樹は笑顔で飴を口に入れた。
「おいちいのー…」
頬っぺたが落ちそうな表情で目を細める俊樹に、源水は温和な口調で説明した。
「美味かろう。花梨という果実の飴じゃからな」
満面の笑みで甘味を味わう俊樹と、彼の頭を撫でている十兵衛に、レンが宣告した。
「結果は十日後に出るから、また今度来るようにな!」
「了解した」
まだ初潮が来るか来ないかの少女に丁寧に頭を下げ、十兵衛は俊樹を促して薬屋を後にした。

「さて、因果なものよ。『上』の連中はあの子の事を知っているのか…」
孫娘に気付かれぬよう、口の中で源水は呟いた。

「お帰り、十兵衛」
十兵衛にとって意外だったのは、無限城外で生活している筈の親友がモニタールームに来ていた事であった。花月は美しくも悪戯げな表情で、十兵衛に問い掛ける。
「で、何処の葛の葉姫と契ったんだい?」
「花月…別にこの子は、俺が産ませた訳ではないぞ」
「そうだね。君にそんな甲斐性があったら、今頃君ん家はハーレムだよ」
物おじせず十兵衛と言い合う花月を、俊樹は目を丸くして見つめている。その視線に気付いた花月は、両手を広げて言った。
「それにしても、可愛い子だね!十兵衛に育てさせるのが惜しいよ。…もっとよく顔を見せてくれるかい?」
十兵衛は俊樹を抱き上げ、花月の視線に合わせる。
「僕は花月だよー。名前を言える?」
「かじゅ!」
「…」
「おいおい俊樹、彼はかじゅじゃなくて花月だ」
「かじゅ!」
「…」
「…」
「まあ、良いではありませんか。この子も花月様に懐いているようですし」
朔羅が言う通り、十兵衛の腕の中の俊樹は花月に向けてしきりに手を延ばしている。花月が俊樹を受け取って抱っこすると、嬉しげに肩口に頬擦りをする。
「かじゅ、かじゅvv」
「うーん、やっぱり可愛い〜vv」
きゅーと子狐を抱きしめる麗人の姿にやれやれと溜息をつきながら、十兵衛は年若い主君の仕事が済むのを待つ。
もうすぐ、お十時の時間になりそうだった。

ようやく完結。次回からは日常編。
 

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