きつねとちき部屋。

□ふるさとを歌う夜更け・@。
1ページ/1ページ

意識が不意に浮上し、薄い敷布団ごしに床の硬い感触があると十兵衛が認識し、『悪いものが通る』と理性に依らず思った瞬間。
「―――まま、まま!」
大声と共に、ベッドの隅っこで熟睡していた筈の俊樹が跳ね起きる。隣に添い寝していた花月も何事かと起き出し、床に寝ていた十兵衛も慌てて身を起こした。
「まま、ままどこ…」
ベッド中をうろうろと捜し回っていた俊樹が動きを止めると、青い眼からぱたぱたと大粒の涙が零れ落ちた。

十兵衛が俊樹を拾ってから数週間経ち、モニタールームに一緒に通勤しては遊びに付き合ったり、巡回に出た帰りに俊樹の出迎えを受けたりするのに慣れた頃。MAKUBEXが俊樹にクレヨンと画用紙を与えてこう言った。
「好きな物を描いていいよ」
喜んだ俊樹は何枚も絵を描いた。十兵衛や花月、朔羅、MAKUBEX。
「あー、このポニーテールはワイかいな。よー描けとるわ」
「ちょれ、えみちなの」
等という会話を聞きつつ、散らばった絵を整頓していた十兵衛は、ふと手を止め、一枚の絵を拾い上げた。
そこに稚拙なタッチで描かれていたのは、金髪で白衣らしき服を着た女性と、俊樹らしい子狐と、黒髪に髭を生やした紳士の姿だった。
「俊樹、この二人は誰だ?」
「きゅ?」
十兵衛が絵を指し示すと、俊樹はいぶかしげに首を傾げる。何故そんな事を聞かれるのか理解していないのだろう。
「無限城の知り合いにこんな人はいないだろう?この女の人は誰だ?」
俊樹は喜色を浮かべて答える。
「まま」
「まま?俊樹のママか?」
「きゅ」
幼いきつねはこくんと頷く。
「では、こちらの人は?俊樹のパパか?」
「ぱぱ?ちょれ、なに?」
「…俊樹のお父さんで、俊樹のママの旦那さんか?」
小首を傾げた俊樹は、十兵衛の立て続けの問いにそれでも答える。
「るちふぁーなの」
「何?僕のあげた熊さん?」
今日も訪ねて来ていた花月が、俊樹の背丈より大きい熊のぬいぐるみを指差すと、俊樹は首を横に振った。
「ちがうの!るちふぁーはるちふぁーなの!」
「…人間のルシファーと、熊さんのルシファーが居るわけ?」
「きゅ!」
意を得た回答を用意されて、俊樹は力強く頷く。
十兵衛と花月は顔を見合わせて黙り込み、モニタールームは沈黙に覆われた。

そんな事が昼間にあったせいだろうか。俊樹が誰かを恋しがって夜泣きするなど、初めての事だった。『夜驚症』―――そんな専門的な言葉が十兵衛の脳裏に浮かんだ。
俊樹がしきりにしゃくり上げるのを宥めようとして、花月が小さな背中をさすっている。十兵衛は俊樹の頬の涙を拭い、呼び掛けた。
「俊樹、ママを捜しに行こう」

ここ数日冷え込みのきつい夜気に備えて、背負った俊樹の上から半纏を着込む。もそもそと頭を出した俊樹が、小さく震えた。
「じゃあ、気をつけてね」
「ああ、花月は先に寝ててくれ。鍵は持っているから」
十兵衛は冷気の中を進み始める。捜しに行こうとは言ったが、元々あてはない。近所をゆっくりと回り、俊樹の眠気を誘うのが十兵衛の目的だった。
しんとした夜の空気の中で、俊樹が呟いた。
「じうべ、おうた、うたって」
「歌か?」
さほど歌が上手な訳ではない十兵衛は、ささやかな持ち歌の中から懐かしい童謡を捻り出し、歌い始めた。
「兎追いし、かの山。小鮒釣りし、かの川。夢は今も、巡りて…忘れがたき、故郷…」
背中で養い子がくすくすと笑った。
「じうべ、おんちなの…」
「こらっ、そんな事を言うと、もう歌ってやらないぞ」
「うたって、うたって」
とっとことっとこと、小さい肉球付きの足が十兵衛の背中を親愛的に蹴っ飛ばす。十兵衛は歌い続けた。
「いかにいます父母、恙無しや友がき。雨に風につけても、思いいずる故郷…」
無限城の夜空は、郷里の空のように星が美しくはない。空気もどこか曇っている。
それでも十兵衛は、捨てた筈、なげうった筈の故里を思って歌った。
「志しを果たして、いつの日にか帰らん。山はあおき故郷。水は清き故郷…」
微かな寝息がした。
「俊樹?」
故郷の霜晴れの空と同じ色の瞳持つ子狐は、いつの間にか寝入っていた。
本当は、母親が見つかるなどと最初から思ってなかったのだろう。不憫さで、胸が締め付けられそうになる。
十兵衛は俊樹を起こさぬよう、静かに踵を返した。

Aに続く。
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ